新元号「令和」についての雑感

 新元号「令和」そのものよりも、政府の発表内容に違和感がありました。その理由は、次のとおり。

 元号制度(慣習というか)自体が、中国からの「借り物」(ただし、本家ではすでに廃止されたので現在は日本でのみ続けられている)。したがって、これまでのすべての元号は、漢字(中国の文字)で表記され、音読み(中国語読みを起源とする読み方)で発音されてきた歴史があります。これは新元号も踏襲しています。

 国書(古ければ古いほど)には、中国古典籍からの引用や参照(いわゆる「本歌取り」的なもの)が多くみられます。それは当時の文化先進国だった中国へのリスペクトからきていました。それも日本文化の大きな特徴のひとつ。だから、「国書から」といっても結果的に中国古典籍からの孫引きになる可能性が高く、「国書を典拠に」は、あまり意味のない主張のように感じます。

 実際、今回の「令和」の典拠が『万葉集』だと聞いたときも、「なんか万葉集らしくないな」という違和感をもちましたが、それは、普通『万葉集』といえば日本最古の歌集なのだから、当然、歌の部分を典拠として言葉が選ばれているものだと思ったところ、歌に先立つ「序」の部分から言葉が取られていたことが説明されました。『万葉集』は、「万葉仮名」という言葉もあるとおり、借り物の中国文字である漢字を使って、日本人が知恵をしぼってなんとか日本語を表記した(すべてではないが)ことで有名な書物でもあります。「国書から」にこだわるのであれば、そうした部分(つまりは歌の部分ということになると思う)から言葉を取るべきだと思いますし、ひょっとすると、それこそ日本最初の、訓読みの元号が発表されるのかもしれない。例えば「美麗」と書いて「うるわし」と読むような(これはあまりいい例ではないが)元号なら確かに画期的であり、「日本文化」に寄り添った元号だと言えるかもしれないと思ったのですが、実際は『万葉集』の中でも漢文で書かれた「序」の部分を典拠としたものでした。ただ、冒頭にも書きましたが、元号の歴史と基本性格からすれば、漢字の表意機能を無視した、いわば「当て字」である「万葉仮名」の部分からは(「音読み」のままの発想では)元号が取りにくいこともまた当然だと思います。

 政府は典拠部分を書き下し文(日本語に直して表記した文章)で説明しましたが、この「序」部分は実際の『万葉集』では、「時初春令月気淑風和」と完全に漢文で書かれています。ちなみに、書き下し文は「時(とき)に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ」と読むのが一般的なようですが、研究者によって助詞の補い方や漢字の訓読みなどについては若干の差異があるようです。

 そして、「令和」を含む『万葉集』の文章も、案の定、中国の古典籍『文選』に典拠しているということです。これは、精通した専門家なら「調べなくても知ってる」レベルのとのことです。なぜなら、岩波書店新日本古典文学大系 萬葉集(1)』という大抵の学校図書館に備えてある本の補注に明記してあるのですから。

 にもかかわらず、政府は新元号の発表に際して、「令和」が中国古典籍からの「孫引き」だという説明を一切しませんでした。筆者のもうひとつの、そしてより強い違和感がこれだったのです。政府は、例えば、「令和は、国書である『万葉集』にみられる何々という文章を第一典拠としますが、この『万葉集』の一節は、中国の古典籍『文選』巻十五の「仲春令月、時和気清」(後漢・張衡「帰田賦」)という文章を踏まえたものだということがわかっています。」くらいの説明を、なぜしなかったのでしょうか。政府は『文選』には一切触れず、「初めての国書を典拠とする元号」の一点張りでした。

 筆者は、今回の新元号の発表にかんして、最大の問題点はこれだと思っています。決して、漢文のところから取ったからいけないなどと言っているわけではありません。くどいようですが、あくまで、典拠は『文選』にもさかのぼることができる、という単純な事実を説明しなかったことに、変な「意図」を感じて「嫌な感じ」が残った、と言っているのです。そして、その「嫌な感じ」とは、これから大事な国民の財産となる新しい元号の出発点にあたって、このような目先の取り繕い(それもすぐわかってしまうような)を施すような政府はやはり信用できないな、という感情につながるのではないでしょうか。

 なお、筆者の「令和」という元号自体への印象は次のとおりです。

 字形に若干の揺らぎがあること(4・5画目の書き方)や、字義に「よい・りっぱな」や「令嬢」のような敬称の意味がある一方で、「いいつける、強いてさせる」という意味や、それから派生した「命令」「法令」のような言葉を連想させる、といった難点があることが気にはなりますが、総合的にはぎりぎり「合格」かな、と思っています(こうしたものは「百点」はむつかしいから)。

 であればこそ、その出発点を汚した(が言いすぎなら禍根を残してしまった)政府の発表の仕方が残念で仕方がないのです。

 なお、漢字のふるさと中国では、「令」は同発音の「零」に通じる(中国では同発音の別漢字を同じ意味の漢字として代用や置換することはよくある)ので、「平和が零だ」とのメッセージと受け取られる可能性があるとの批判があるようですが、これは中国の漢字文化による「用法」「慣習」をもとにしたものであって、日本の漢字文化では「令」が「零」の意味に通じることはないので、ちょっと的外れな(「いちゃもん」にも近い)批判のような気がします。