森鷗外は明治のグローカル人

最近「グローカル」という言葉をよく耳にします。調べてみると、この言葉は、1980年代に「グローカリゼーショングローカル化)」の形で発生したようです。もちろん「グローバリゼーション=世界普遍化の意」と「ローカリゼーション=地域限定化の意」の混成語として。当初は、「地球規模での展開を目指しつつ地域の法律や文化にも適応可能な形で提供される製品やサービス」という意味合いの企業戦略系の用語だったそうです(ウィキペディアより)。現在の我々は、「グローカル」という言葉に対して、教育や文化などをも広く包含するイメージを持つと思うのですが、発生した頃にはそれよりも狭い意味だったことが分かります。

この「グローカル」という言葉が誕生する100年以上も前に、すでに今日的「グローカル」な感覚をもって、ユニークな活動を実践していたのが、我が津和野町(島根県)出身の文豪、森鷗外先生(1862~1922)です。軍医と文人として「二生」分を生きた知の巨人の業績は、小説や戯曲、文学評論から翻訳、さらには医学論文に至るまで実に膨大ですが、そんな中で一風変わった次のような活動(作品)があります。それは、明治42年(1909/47歳)から大正2年(1913/51歳)にかけて、雑誌『スバル』に55回にわたって、ヨーロッパの事件や事情を紹介した『椋鳥通信』というコラムを連載したことです。この時期は、先生はまだ現役の陸軍軍医総監、つまり軍医のトップにあり、文学活動も『ヰタ・セクスアリス』『雁』『青年』『阿部一族』『ファウスト』など、のちに生涯を通じて代表作となるような作品を次々に執筆あるいは刊行した時期ですので、その日常は多忙を極めていたことが容易に想像できます。そんな生活の中で、先生は東京・千駄木に構えた自宅の書斎に居ながらにして、遠いヨーロッパの情報を連載コラムの形で伝えました。読者には月単位で新しいヨーロッパのニュースが入ってくるので大人気だったといいます。ニュースの選び方にも、語り口にも、先生独特の乾いたユーモアセンスが溢れていました。その文体にも「文豪」としての力量が遺憾なく発揮され、漢文と和文を絶妙な具合に調合するなどの工夫により、抜群に面白い読み物に仕上げていきました。『スバル』はほどなく廃刊されてしまいましたが、『椋鳥通信』の継続を望む若い読者の熱烈なリクエストによって、別の雑誌に続編を載せる程の絶大な人気を誇りました。

内容は、やはり文学情報の紹介がやや多かったようですが、それ以外にも、社会を賑わした犯罪から事故、有名人のゴシップ記事まで、実に多種多様なニュースや情報を紹介しています。例えば、「某日某月パリの名優何某が○○歳で肺炎に罹って死んだ」、「ドイツ議会で男女裸体の見世物が藝術か風俗びん乱かの議論があった」、「(名探偵シャーロック・ホームズの小説で有名な)コナン・ドイル氏が大手術を受けた」といった具合です。これが、ヨーロッパ事情に精通した先生の手にかかると、上質な面白い読み物になるのです。ちょっと読みたくなったでしょ。岩波書店刊行の『鷗外全集第27巻』に所収されていますし、岩波文庫版の『森鷗外椋鳥通信(上)(中)(下)』もあります。岩波文庫版にはドイツ文学者の池内紀氏による解説があり、絶好のガイドです。

鷗外先生は、青年期に約4年間のドイツ留学を経験しています。おそらくは、もう一度青春を謳歌したヨーロッパへ行きたかったでしょうが、その希望は、生涯叶うことはありませんでした。だから、せめてヨーロッパの新聞などを東京に取り寄せて、自らが楽しむと同時に日本の若者にも提供したのではないでしょうか。池内紀氏も文庫本解説で

ピンと髭をはやした軍医総監の写真からは想像もつかないが、「スバル」連載をつづけているとき、鷗外は青年のような初々しい好奇心で海外情報を追っていたのである。

と、このときの鷗外の心情に思いを馳せています。こうした一面は、鷗外先生の従来のイメージである「文学者」の仕事からは逸脱して「ジャーナリスト」の仕事そのものです。また、このコラムは、一つの記事が50~100字程度で書かれているものが多く、いわば現在の「ツイッター」にあたるようにも感じられます。ただ、中には先生が面白いと思った資料をまるごと引き写してかなり長大になっている記事もあるので、この場合は「ブログ」にあたるのかもしれません。

さて、いくら「ヨーロッパの最新ニュース」といっても、なにせ今から100年以上も前のことですから、やはり数ヶ月のタイムラグはしかたないだろうと思うのが普通です。当時ヨーロッパの新聞や雑誌を日本で定期購読することは可能で、鷗外も実際に購読していましたが、

当時はもとより船便であって、早くて一カ月、通常は一カ月半はかかった(前出池内氏の解説より)

ので、そう思うのは当然です。ところが、『椋鳥通信』はそれよりずっと早いニュースを紹介していました。早いものでは、現地での新聞報道から2~3週間で『スバル』に載っているものがあります。先生はどんなマジックを使ったのでしょうか。その「種」は二つあります。一つは1904年に開通したシベリア鉄道によってヨーロッパから極東への輸送時間が半減したこと。もう一つは、ドイツの通信社の東京支局にあった先生の「人脈」を利用して、特権的に情報を得ていた(可能性がある)ことです。いずれにしても、スピード感も決して現在のインターネットに引けをとってはいないように感じます。いやむしろ、鷗外はスピードこそが勝負とばかり、少々の不正確さは構わなかった節すらあったと池内氏はみています。

この通信者(鷗外のこと/筆者注)はあきらかに精度以上に速度を重視した。それこそ情報のいのちであって、まちがいが判明すれば、あとで訂正すればいい。さしあたりは速さである。すべてにそれが優先する。(前出池内氏の解説より)

鷗外先生がもし現代に生きていたら、さぞツイッターやブログを最大限に活用して、我々を強力に引っ張ってくれただろうと想像が膨らみます。また、こうした先生の活動は、もはや文学というよりも、いわば「ジャーナリスト」の仕事です。池内氏も

「椋鳥」は江戸の言葉で「田舎者」を意味している。鷗外はどのような意味をこめてこのタイトルにしたのだろう。世界の田舎者日本への発信なのか、それとも日本に住む田舎者に見立ててのことなのか。(中略)百年以上も前に近代メディア産業をひとり占めしたような記録は拭ったように新しい。これだけ「現代的」な作品を、いつまでも埋もれさせておく手はないのである。(前出池内氏の解説より)

と、「グローカル」という言葉を使わないながらも、まさに鷗外の『椋鳥通信』の「グローカル」性を強調して、上巻の解説文を締めくくっています。

筆者の言葉で繰り返せば、こうして100年以上も前に、東京(ローカル=世界の田舎)に居ながらにして、海外(グローバル)の情報を受発信していた鷗外先生は、まさに「グローカル」な「ジャーナリスト」そのものだといえるでしょう。